一喜一憂

私はつくづく思う。

 

日本人は、他者に依存しすぎだ。

 

これまでの自己分析と、そして友人たちとの話を通して、度々思う。

この依存という輪の中から抜け出すにはどうすればいいかその方法について、もう何年も考えている。

 

 

もちろんだが、私は純粋な日本人の一人だ。

だからこそ、人間関係の中でどのようにその依存的思考が自分を、友人たち、職場の同僚たち、そしてこどもたちを支配しているか、考えて止まない。

 

 

 

私は大学時代、ギターを弾いたり歌ったりして、バンド活動にその時間の大半を費やした。

 

バンドを組む上で、またライブをやる上で、個人の技量というのはとても大事だ。

 

人に見てもらいたい。良いライブだったと褒められたい。カッコよかったといってもらいたい。自分の好きな、素敵な音楽を知ってもらいたい。上手い人と知り合って認めてもらい、また音楽的な高みにいきたい。

 

モチベーションとなるのはこんなところであった。

その中でも、他者の評価の呪縛によって時に苦しめられる。

 

他者の評価とは、いつでも揺れ動くものだ。

気分や偏見などでいとも簡単に歪められる。そのような他者評価によって、時に喜び、時に辛く感じてしまう。

 

これは音楽をやっている時だけの話ではない。

 

友人たちにどう思われるかを気にしなければならなくなったら最後、とことん傷ついてしまうことも多い。

 

人間関係で、逃げる手段ばかり取ってしまうと、逃げ癖がついてしまう。もちろん、人間関係で疲れたらグループや友だちと離れて、たまには1人でいればいいのだ。

1人でいるのに、慣れた方がいい。

 

私もよく経験した孤独がある。

 

繋がっているようで繋がっていない孤独だ。

 

一人でいるのは大丈夫でも、大勢のなかにいる時や友達といる時に強く感じる孤独。耐えられないなあと感じたこともあった。

孤独っていろんな形があると思う。特にいま言及している孤独こそ、受動的で、自己中心的だった。友人や誰かに自分という存在に気づいて欲しい。声をかけて欲しい。心にふれてほしい。そんな状態であったと思う。ある意味、友人を試しているし、自分という存在を試している。そして、最後にはひどく落ち込むのだ。本当にばかげていた。

ただ繰り返しの中で、気づく。

 

自分は何かに期待しすぎなのだと。

自分を人に捧げてばかりでは、自分は支えられない。

自分を愛してあげることができなければ、真に人を愛することはできない。

 

なにより大事なのは、自分という人間を認めて許すこと。

自己の存在が揺らぐほど他者に自分の根幹たるものを委ねないこと。

 

自分の秘密は自分だけのものにする。

 

 

 

競争化社会を生きていく上で、人と比べて生きる人生には疲れる。

かといって、巷ではやっている自己啓発の本を鵜呑みにするのも何か違う。

ここに書いたような自己の拡大ばかりではだめだ。

 

なによりもバランスが大事だと思う。

とにかく、身体的にも精神的にもバランスを崩すようではその考え方は誤りだと理解したい。

 

仕事でも、一喜一憂しすぎて辛い時が頻繁にある。

 

 

バランスを一人では保てないことも多い。

 

いろんな人に会い、話をしたい。

エネルギーの充電のようなものだ。

そして、時には自分のエネルギーを分け与えられたらいいかなと思う。

 

幸せに暮らすために、やはり、人とつながって生きていく。

 

その方法を体当たりで学んでいるのは、学校でも生徒だけではない。